| さて、こうして10年間の品種交替の趨勢を見ると、特定の品種が地球上のどこのブドウ畑にも植えられて、もともとはボルドーとかブルゴーニュとか産地に固有のブドウとしてあったものが普遍化してしまう将来が予想されます。ワインは、まさ文明の時代へ入りつつあるのを実感します。 すると、次にはこんなことが思い浮かんできます。 その一つは、将来、メドックの銘醸蔵よりもっとすごい赤ワインが、どこかの新興ワイナリーから生まれるかも知れない、ということです。ペトリュスやル・パンをこえるメルローのワインが出てきても不思議ではないのです。モンラッシュ以上のシャルドネがこれから新植するブドウ畑で収穫される日がくるかも知れません。 なぜなら、これまで銘醸の誉高い畑は、そこがその品種にとって、至高のワインを産出する選ばれた場所であると、誰も証明してはいないのです。それは神様にだって保証はできません。ボルドーやブルゴーニュの畑の環境が、素晴らしいワインをつくる最高の条件だと本気で信じている人は、多分、有能なつくり手には、もういないでしょう。 そうなってきたことと、新世界のワインが面白くなってきたこととは、密接に関係していると私は考えています。 そうすると、やがて、食傷するほどにカベルネやシャルドネの銘醸品が、あちこちの産地から輩出してきます。文明化の行きつくところは、それでいいの?という素朴な疑問が湧いてきます。ワインの本質は文化ではなかったか。そう問い直さざるをえません。 ワインづくりに遅れて参入した産地は、カベルネ、メルロー、シャルドネのいずれかでまず国際水準のワインを産み出さないことには、産地として飲み手の認知を得られなくなるでしょう。文明化には、そういう側面があり、このハードルをクリアしないと、文化としてのワインには立ち返れないのです。 もう−つ思うことは、文明化が進み、しかもボルドーやブルゴーニュの銘醸ワインをおびやかす逸品がどこにでもあるようになったら、由緒ある産地はなにをもってアイデンティティを主張するのでしょう。近頃、伝統を誇る産地が、しきりに「テロワール」に言及するのは、もしかすると、そうした将来の不安を予感しているからかも知れません。 1990年段階の品種盛衰の動向は、スペインやイタリアを代表する品種、テンプラニーリョやサンジョヴェーゼが存在を示し始めたことや、カベルネ、メルロー、シャルドネに次ぐフランス系品種の健在が目立ちます。これらには、先行する文明化品種に対するアンチテーゼも、当然のことながら、含まれているのだと、私は考えています。 さらに付言するならば、この表の見えない部分で、新興産地には、ポストカベルネ時代を見越して、産地固有の品種によるワインづくりが、すでに始まっているのです。 カリフォルニアはジンファンデル。オーストラリアはシラー。ペンフォールズのグランジ・ハーミテッジを味わえば、この品種はローヌ以上にすごいワインになると感じてしまいます。南アはピノタージュ。アルゼンチンはマルベッタ。チリはひょっとするとボルドーでは消滅したカルムネかも知れません。これらヨーロッパの風土では一流となりきれなかった品種が、その潜在するポテンシャルを存分に発現させるテロワールと出会う可能性は、大いにありうるのです。メドックというテロワールでスタリーニングした結果、マルベックは脱落し、カベルネは残りました。だからといって、カベルネが常にマルベックよりすぐれた品種であるとは決していえません。 カベルネとシャルドネは、ワインの文明化に実に大きな頁献をしています。けれども、ワイン文化がそのようにして止揚されるのだとは、私は思っていません。 |