余話。その1
                                                  
ワインづくりが技術を獲得するまで(7)
-パスツ−ル以前−
 
 
  明治の始め、ビールもワインも日本人にはそのつくり方がわかりません。それで勉強にでかけます。中川清兵衛は免状をもらって帰国しました。免状を出したということは、教える事柄が明碓にあって、それを伝達できるということです。中川の場合、体験を通して学んだ部分があるかも知れませんが、それは技術そのものが未熟であれば、やむを得ません。技術というのは、抽象化し、普遍化できるものなのです。ビール醸造については、冷凍機が採用される直前、中川を媒介として曲がりなりにも技術移転ができたとみてよいでしょう。それは10年もたたないうちに、新たな技術移転を再び、必要としたのですが。  一方、ワインはどうであったか。山梨県勝沼からフランスへ留学した二人の青年の場合をみますと、毎日毎日、畑仕事をさせられて いる。あちらの人にとっては、それがワインづくりの一環なのです。しかし、それは日本人には理解できない。日本酒の酒蔵のことが頭にありますから、ワイン醸造場で働くものとばかり思っていたわけです。それで、ワインの勉強はいつになるのか、畑仕事ばかりしていて大丈夫なのか不安になってしまいます。今でこそ「ブドウ畑からの仕事が一貫していて、はじめて出いワインがつくれる」なんて言いますけれど、こんなことを本気で日本人が言い始めたのは、せいぜいここ5年ぐらいのことです。  
  それで秋になり、アッという間に仕込みは終わってしまいました。学ぶというような事柄は何もありません。その印象を彼らはノートにこう書き残しています。  
「葡萄酒製造ノ義ハモットモ易シ。タグ葡萄ヲ潰シ桶二入レ置キ、沸騰後二至り暖気サメ タルトキ絞レバ、則チ酒トナルナリ」  
 わざわざ留学して、持ち帰るべき技法上の知識はほとんど見出せませんでした。中川清兵衛と比べて、大変な違いです。  

 この違いはどこにあったのか。それは、パスツールの時代、微生物についての知識や応用の仕方を獲得し、また機械化が進んで、酒づくりが文明化に向かってまさに動き出そうとしていた、そのことと深く関係しているのだと思います。  
 技術史的にみると、明治前期、日本が洋酒醸造技術を導入しようとしたとき、ビールは先進国において、パスツール以後のステージにあり、ワインは先進国といえども、パスツール以前のステージにあったのです。
  パスツール以前、以後、という節目は、酒つくりに、文化と文明のふたすじの道を分けるものと位置づけられます。文明という文脈の上にのったビールは、後発の日本に先端技術をいち早く導入することを可能としました。 一方、文化という文脈の上にあり続けるワインは、その文化が内包する技術を理解し、これをあるがままに受容するのは至難でありました。  
 日本で同時期に国産化の始まったビールとワインが、ビールは成功し、ワインはうまくいかなかった、その理由がここにあります。このほかに、飲み手の嗜好など、市場形成に係る問題もありますが、醸造技術の移転が成功したビールと、技術そのものが曖昧なままその後の100年を停滞したワインの違いは、これまでに述べたようなところから生じたと考えています。  
 文明が移転するのは容易ですが、文化を移転するというのは大変なことです。  


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