| 生まれて日の浅い微生物学は、ここに到ってビール醸造をリスクの多い職人の仕事から近代化工業へ脱皮させる原動力となったのでした。しかしこれ以後、ビールが巨大な装置産業へ発展していくのは、また別の要因によることを指摘しておかなければなりません。
それは冷凍機の発明です。下面発酵酵母のすぐれた点は、まず第一に低温で発酵するため、雑菌の汚染による品質の劣化が防げることにありました。このほか、凝集性が良いため清涼なビールが得やすいことや、上面発酵酵母にはつくり出せなかった快い風味のあることも挙げられます。 しかし不都合なこともありました。低温の維持が大変だったのです。そのため、醸造は冬を中心に、およそ一年の半分しかできませんでした。気温が上がりはじめる三月には、夏に飲むビールを大わらわで仕込み、できたビールは地下倉など涼しい場所に囲っておかなければなりません。けれども、そのことによって品質がいっそう向上することを発見しました。これがラガー・ビールの始まりです。 ラガーとは寝床の意味で、冷暗所に貯蔵しておいしくなるまで寝かせておいたビールを、それまでの発酵が終わればすぐ飲んでしまう若ビールと区別して、ラガー・ビールと呼んだのです。当然、次の目標が生まれます。ラガー・ビールを一年中飲みたい。当時は気温が高くなれば上面発酵の若ビールを飲むより仕方ありませんでした。ラガー・ビールはそのための大きな設備を持たなければつくれなかったからです。 いったい、どの位の低温が必要だったのか。主発酵の理想的な温度は5〜6℃、発酵中は発熱しますから、醪が冷えるように周囲の温度はもっと低温でなければなりません。主発酵の後に続く貯蔵(これを後発酵と呼んでいます)は0〜1℃で品質の安全と若ビールの熟成をはかります。 では、こうした醸造環境を昔はどうやってこしらえたのか。すぐには信じられないかも知れませんが、煉瓦造りの分厚い壁をもった醸造所の中に、氷をいっぱいに詰めこんだのです。中川清兵衛はベルリンに留学して、こういう醸造法を学んだのです。開拓使の官営麦酒醸造所は1876年(明治9年)9月に竣工 しました。中川は1873年3月から1875年5月までティフォリ醸造所で修業して低温発酵の腕を磨いたわけです。開拓使のビールが発売された日がいつか、正確な記録は見つかっていませんが、明治10年6月頃といわれています。その名称は「札幌冷製麦洒」です。醸造所ま豊平川が純水する冬、それを切り出して使用する計何でした。冷製ビールをつくるためには冬を待たねばならなかったのでしょう。冷製ビール、すなわちラガー・ビールのことです。 ついでに申しますと、日本のビール醸造黎明期、先行した民間のビールはいずれも上面発酵のエールでした。手づくりの小規模につくるビールは、上面発酵の方が取り組みやすかったのです。それとあわせて、御一新の頃から日本に最も多く輸入されていたのが、英国バス社製のエールであったことも、それがモデルとなって、多少は影響したかも知れません。 |