UNCORK
堀 賢一
ジャイエとアカ

1980年代、ブルゴーニュの赤ワインの生産現場には、アンリ・ジャイエとギイ・アカという二人のスーパー・スターがいましたが、ジャイエが現在においても熱狂的な支持を集めているのに対し、アカは辛辣な批判にさらされています。しかしながら、方法に違いはあったものの、両者が求めていたのはまったく同じものでした。

アンリ・ジャイエ
  1995年を商業的な最後のヴィンテージとして引退したアンリ・ジャイエは、1988年にドメーヌ・ルロワが現れるまで、事実上、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティDRCに対抗しうる唯一の生産者でした。実際、1980年代を通じて、彼のエシェゾーはDRCのものよりも常に高価格で取引されていました。
  ワイン生産者の三男として生まれたジャイエは正式な醸造学を習得する機会がなく、すべて経験から学んだのですが、そのためか、新しい技術には常に懐疑的で、除草剤や化学肥料に頼らない葡萄栽培を、有機農法が現在のように喧しく語られるようになるずっと以前から実践してきました。第二次世界大戦以降のブルゴーニュの畑には、葡萄の生育を促進するためにカリウムが大量に散布されてきましたが、これによって強まった樹勢はより大きな果粒となって現れ、収量は上がったものの、果汁に対する果皮の比率が下がったためにワインは色調が薄く、個性に欠けるものとなりました。ジャイエはいち早くこれに気がついたひとりで、カリウムを散布しない代わりに収量を他の生産者の半分近くまで抑え、濃い色調の、味わいの凝縮したワインをつくり続けてきました。
  醸造の現場では、さまざまな試行錯誤のあとで、1970年代の半ばに「ジャイエ・スタイル」を確立します。これは、伝統に反してピノ・ノワールの果梗を100%取り除き、ピュアな果実味を追求するもので、果粒のみの葡萄をセメントの発酵槽に入れて15℃程度に冷却し、アルコール発酵前に5〜7日もの間、低温でマセレーション(浸漬)を行うものです。これによって安定した色素と果実のフレヴァーを抽出可能とし、その後、気温に戻すことによって自然酵母でのアルコール発酵を行います。発酵後、100%新樽での熟成・マロラクティック発酵を経て、ワインはフィルター処理されることなく、樽から直接瓶詰めされます。除梗をまったく行わないDRCスタイルとは異なり、ワインはよりエレガントで、ピュアな果実味をもったものとなります。こうしたジャイエ・スタイルはブルゴーニュのみならず、世界中のピノ・ノワールの醸造現場で広く採用されています。

ギイ・アカ
  レバノン人の葡萄栽培・醸造コンサルタントであるギイ・アカは1975年にブルゴーニュに事務所を開いて以来、最盛期には40を超えるドメーヌのコンサルティングを行い、彼の顧客にはジャン・グリヴォやコンフュロン=コトティド、コント・スナールといった、秀逸な生産者が含まれていました。アカの思想の根底に流れていたのは復古主義で、1900年代の古いブルゴーニュが1970年代のものよりも色調が濃く、味わいも深いことに感銘を受けた彼は、「どうしたら1900年代のブルゴーニュを再現できるか」を科学的に解明しようとします。
  彼の推し進めた畑での改革には、植樹密度を高めて1本の葡萄樹から収穫する果実数を減らすことや、葡萄が過熟に近くなるくらいまで収穫を待つことなど、現在でも高く評価されているものが多いのですが、議論を呼んだのは彼の醸造上の改革でした。醸造学が未発達であった1900年代のワインの色素量に着目したアカは「最良の色素や香味成分は、発酵前のアルコールが存在しない状態で抽出される」という結論に達します。「畑を戦前のブルゴーニュの状態に戻す」「アルコール発酵の前に色素の抽出を行う」というのはジャイエとまったく同じ発想だったのですが、アカの場合はこれを極端に推し進め、50〜75%の除梗を行なった後で、アルコール発酵が始まらないよう、通常の2〜3倍の量にあたる100 ppm程度の二酸化イオウ(SO2)を添加して、酵母の活動を人為的にコントロールするようになります。これと並行して発酵タンクを8〜15℃に冷却し、5〜10日間に及ぶ低温マセレーションを行うようになりました。こうしてつくられた「アカ・スタイル」のワインは濃い色調で、葡萄に由来する果実香がたっぷりと含まれるようになりました。
  改革があまりにもドラスティックであったためか、アカがブルゴーニュの人間でもフランス人でもなかったためか、彼の関与したワインは当初から痛烈な批判を浴びます。瓶詰めの段階での残存濃度は他の生産者のレベルと変わらなくなるものの、高濃度のSO2の添加は、できる限り人為的な操作を避けようとする時代の潮流からかけ離れ、果実香が先行するあまり、葡萄畑に由来する個性が前面に現れず、「アカのワインはすべて同じ味がする」という批判を浴びるようになりました。ブラインド・テイスティングでは北ローヌのシラーと間違ってしまうケースが続出し、実際、コンフュロン=コトティドの1986年ヴィンテージの一部は「典型的でない」という理由で、原産地呼称を許されませんでした。「ボトル熟成によって質が向上しない」というのはイギリスのジャーナリストが好んで指摘した点で、実際、1992年にブリストルで行われたワインのシンポジウムでアカは専門家たちから一斉砲火を浴び、私自身も批判票を投じたひとりでした。確かに、若い段階で試飲したアカのワインは果実に由来する風味が強烈なため、どれも同じような味わいで、明らかに「土地の個性」が失われているように感じられたのですが、現在ボトル熟成のピークにさしかかっている、彼の影響を強く受けた1980年代後半のワインをあらためてテイスティングしてみると、無駄なぜい肉が落ちたあとで、畑ごとの明確な個性が現れているのに驚かされます。
もう一度彼に会って、自分が間違っていたことを謝りたいのですが、ギイ・アカは1990年代の半ばから行方不明になっています。