イタリアワイン紀行
カラブリアとマテーラ
南イタリアワインの変貌を見る

text 高岡洋文

いざカラブリアへ
  マテーラを出発して南下し、ギリシャ遺跡のそびえるイオニア海沿岸の街メタポントまで車で約30分。国道は時速130km前後のスピードを平気で出せるし、信号も交通渋滞もない。ここ南イタリアは車天国といえるかもしれない。すれ違う車の運転手はみな窓を開けて左手を外に突き出している。手で風を堰きとめ、あわよくば少しでも車内に涼を取りこもうというわけだ。初めは挨拶されたのかと思い、一瞬ハッとするのだが、何のことはないみながそうしている。単なる暑さ対策だ。
  バジリカータ州南部のメタポントは海岸の平地でフルーツを栽培し活況を呈している。メタポントに突き当ったらターラント湾手前で右折する。左手にイオニア海、右手に果樹園や麦畑を見ながら南南西に突き出したカラブリアの南側の海岸線を進む。つまり“土踏まず”から“つま先”に向かって“足の裏”を走るのだ。目指すはリブランディ。カラブリアワインの牽引役である。

カラブリア州とそのワイン
  中村俊輔選手が所属するサッカーチーム、レッジーナはカラブリア州の最南端、レッジョ・カラブリアにある。カラブリア州は全長248km、ティレニア海とイオニア海に挟まれた細長い半島で、その幅は平均60km、最も狭い部分は36kmしかない。細長い州といえばプーリア州や北のボローニャを中心にしたエミリア・ロマーニャ州、あるいはジェノバを擁するリグーリア州などがあるが、カラブリアの特徴は北側をバジリカータ州に接している他は、ほぼ全て海に囲まれていることだ。そしてイタリア半島を縦断するアペニン山脈が州の中心部を南北に貫いている。だから平地面積はわずか9%、丘陵地49.2%、山地41.8%という山勝ちの地勢である。もちろん気候も海と山の両方の影響を受ける。カラブリアにある12のDOCのほとんどは海岸線から山地にかけての丘陵地に点在している。
  メタポントから国道106号線を南下し、カラブリアに近づくと右手に高い山並みが広がってくる。ポッリーノ国立公園の2000m級の山々である。国道もラ・シーラの高原地帯に入ると上り坂が増え、眼下にイオニア海を見るようになる。リブランディのあるDOCチロは、このラ・シーラの先端に位置するのだが、海岸線をのらりくらりと蛇行しながら走るとえらく遠く感じる。カラブリアに入ってまっすぐ進めばその先はすぐシチリアと思っていたのは私の早合点だった。
  カラブリアワインは日本では馴染みが薄い。でも“エノトリア・テルス(ワインの大地)”という言葉は、古代ギリシャ人が美味いワインのできる南イタリアを羨んで使ったことは有名だ。そして、そのギリシャ人が古代オリンピックの勝者に捧げたワインがクリミッサkrimissaであり、そのクリミッサは現代のDOCチロ、つまりシーバリとクロトーネの間のラ・シーラ高原で造られていた赤ワインなのだ。
  カラブリアワインの年間生産量は約70万h・(2001年)。量産を誇る南部にあっては決して多い量ではないが、全体に占めるDOCワインの割合は20%ほどで、これはとても南部らしい。ガンベロロッソ誌では「その前進は遅々としている」「伝統性=表現形態は維持しつつも収穫量を減らし、質を高めなければならない」など、全体像としては隣のバジリカータやシチリアなどに比べて控えめの評価が下されている。
  その中にあって、カラブリアの持つポテンシャルの高さを世界に知らしめる先駆けとなったのがリブランディであり、セヴェリーノ・ガローファノ氏が醸造コンサルタントを務めていた時代に固有ブドウのガリオッポとカベルネ・ソーヴィニョンを使った『グラヴェッロ』で一躍有名になった。1998年にドナート・ラナーティ氏がエノロゴになると、『マーニョ・メゴーニオ』『エーフェソ』などのワインで、知られざるカラブリア固有品種の可能性を次々に開拓している。リブランディの大きな持ち味は、カラブリアを代表する固有品種ガリオッポ(州生産量の80%)、グレーコ・ビアンコ(同90%)を、果実味のしっかりした高いレベルのDOCチロで表現していること。さらに、『グラヴェッロ』『テッレ・ロンターネ』(ガリオッポ、カベルネ・フラン)などのブレンドワインでも注目を集めていること。そして、『マーニョ・メゴーニオ』(マリオッコ種)、『エーフェソ』『レ・パッスレ』(マントニコ種)など、これまで誰も知らなかったカラブリアの固有品種を改良して国際レベルまで高めたことだ。そこには、醸造哲学における懐の深さとともに、古代に名を馳せたカラブリアワインへの強い郷愁があるのではないかと思う。

喧騒の巨大ワイナリー
  ワイナリーに到着した。海岸沿いにある新しい町並みが眩しいチロ・マリーナから国道を隔てた丘の上に雄大に構えるワイナリーとモダンなオフィス。ふくよかな肢体に白いワンピース姿の女性が笑顔で迎えてくれる。それだけで南イタリア情緒たっぷりだ!こちらの都合で無理に早朝の訪問をお願いしたのに1時間遅れの失態。にもかかわらず黒のポロシャツにジーンズ、茶色のカジュアルな革靴で、綺麗な白髪を乾いた風になびかせながら現れたニコーデモ・リブランディ氏は実ににこやかに迎えてくれた。どうやら彼はアポイントの時間を知らなかったらしい。軽快なフットワーク、つま先だけで跳ねるような歩き、身体全体から躍動感を放つ老大家だ。
  オフィスに併設された拡張工事中のカンティーナへ。年間220万本を生産するチロDOC地区最大級の規模。遠くに見下ろすイオニア海の青と手前に広がるチロ・マリーナの新しい住居群のオレンジに、まるで大砲を突き出すかのように横たわる2台の破砕機。幅が6〜7mはあろうかというしろものが、まぶしく輝いている。発酵やストックに使う巨大なステンレスタンクから、搾乳容器と見紛うような小さなタンクまで、さまざまな形のタンクが所狭しと並んでいる。出荷を待つばかりで積み上げられたカートンや、ボトリングを終えた瓶を、口を開けて待つ空箱群、そのそばのダンボール紙の摩天楼。
  バリック熟成庫は真っ赤な鉄製の棚が4段。薄暗い庫内からは鉄筋の赤と整然と並んだ2800個ものバリックの薄茶色が、赤ワインの艶かしい香りとともに浮かび上がってくる。拡張工事にチロ・ロッソのボトリング作業が重なって、カンティーナ内は活気に満ちている。行きかう人々の声が小刻みなボトルの摩擦音と重なって騒々しく、近くにいても大声を出さないと聞こえない。

リブランディの3つの畑
  ブドウ畑にはリブランディ仕様の日本製RV車で向かう。片手で軽々とハンドルを握り国道を160kmのスピードで突っ走るニコーデモさんの運転に、怖くなり手のひらに汗がにじむ。彼はといえば、時々すれ違う車に挨拶したり、カーブで追越しにかかる車を非難したり、こちらの気持ちはお構いなしだ。車の窓越しに映る海と空の青、山の緑、大地の茶、これほどまでに鮮やかで深い色あいを体験したことがかつてあっただろうか。
  リブランディの畑は全部で163ha。DOCチロのドゥーカ・サンフェリーチェ、ピタッフィオ、国際品種を主に栽培するクリトーネ、1998年に新しく拡張し主に実験畑として利用するロサネーティがある。この他に90haのオリーブ畑も所有している。
  DOCチロのガリオッポの畑を見る。チロに関しては伝統を貫く。アルベレッロ仕立てが整然と広がり、優しい風に雄々しく伸びた蔓の緑が揺れる。植樹密度は5000本/ha。収量は8t/ha。土壌はメディオ・インパストとよばれる石灰、砂、粘土からなるもの。ここからあのバランスのよいチロ・ロッソが生まれる。この丘陵はブドウとオリーブで覆われた360度のパノラマ。灼熱の太陽のもと、風に舞い上がる土埃があちこちに見える。
  「DOCチロでは灌漑が禁止されていますが、IGTでは認められています。この規定は一刻も早く見直されるべきだと思います。ここの旱魃は、プーリア、バジリカータよりも厳しいものですから」と、ニコーデモさん。
  次に訪ねたのはストロンゴリ村の近くにある粘土質土壌のクリトーネ畑。リブランディの中ではドイツからの需要の多いブドウがここで栽培されている。「1980年に購入したときは11haでしたが、いまは40haに広がっています。まあ、これはインターナショナルワインですよ」と、彼の説明は淡白だ。白ワイン『クリトーネ』は、シャルドネ90%、ソーヴィニョン・ブラン10%の構成。クリーンでフルーティ、ミネラル感があってしっかりした酸味、南らしい高いアルコールとドライな味わいの秀逸なワインだ。しかし、ニコーデモさんはその畑の前をほとんど素通りしてしまった。
  「昔の技術者は“偉大なワインを造るためには絶対に国際品種を使わなければならない”と主張していました。この土地固有のブドウが信じられなかったのです」と、言いながら畑の脇の茂みで小枝を折ってきて、その葉と枝の香りを私に嗅がせた。「リコリスです。クリトーネにはこの香りがあります。枝を噛むととても甘いですよ」。試してみると苦味と凝縮した甘さがあってサトウキビのようだ。強い日差しの中を心地よい風に吹かれ、しばらく二人でリコリスの枝を噛みながら進む。
  しばらくすると、白品種マントニコの畑に着く。最近、急速に世に認められだしたデザートワイン『レ・パッスレ』と辛口樽熟成タイプの『エーフェソ』を造るブドウだ。
  「最初の収穫はレ・パッスレが1990年、エーフェソが2001年。どちらも新しいタイプのワインです。マントニコの成熟はとても遅く収穫は10月に入ってからです。完熟した段階でエーフェソ用を摘み、さらに過熟させてレ・パッスレの収穫をします。レ・パッスレのマントニコは、収穫のあと10〜20日間天日で干してブドウの水分を40%ほど蒸発させます。ここは日照時間が長く常に乾燥しているため、短期間で北イタリアの陰干しブドウと同じ結果が得られます。もちろんボトリティス・シネレアは無理ですが」。
  『エーフェソ』はバリックで熟成している。黄金色に少し緑色が反射し、ヴァニラの香りの中に柑橘類やナッツの香りをまとった白ワイン。味わいにはアルコールとブドウ本来の苦味があって、後口にはカステラのような余韻を残す個性的なワインだ。
  最後は広大な実験畑が広がるロサネーティに向かう。老若おりまぜて20人ほどの男たちが木材の運搬作業に勤しんでいる。彼は、車からその様子をまるで看守のような鋭い視線で見つめながら畑の坂道に車を進める。若者の働き振りを見て車で近づいて注意したり、現場主任とやりあったり、カラブリア訛りで激しく言いあう姿はとても厳しい。
  「ドリップ灌漑のポンプにトラブルが発生したんです。ここの井戸水は塩水なので、冬の雨水を川から引いて薄めています。ワインの質に影響を及ぼす重要な作業です」。
  このロサネーティ地区で驚くことは、圧倒的な規模で展開するカラブリア固有品種の改良プロジェクトだ。畑を23区画に分け、ガリオッポ、マリオッコ、アルヴィーノという3品種の実生栽培、120におよぶ固有品種のクローン栽培実験がされている。
  「もともとのアイデアは私のものですが、現在はドナート・ラナーティとミラノ大学との産学共同プロジェクトになっています。特に畑の区画分けは彼なしではできませんでした。各区画では、品種、クローンごとに葉や葡萄の形状などを詳細に記録し、小さな容器で発酵させます。実生実験は、特に遺伝的に優れた性質をもつ3品種を使い、自家受粉するクローンと不結実のクローンを選別します。これまで、この品種は農家で栽培されていましたが、生産性が低いのでほとんど見放されてきたものです」。
  実験栽培品種はペコレッロ、ヴィオレッタ、ヴオイオノ、マリナータ、グアルダヴァッレ、マルチリアーナ、ペトルニーリ、ザッゾーネ、ピコーネ、イアンク・トゥンドゥ、ズッケロ・カンネッラ、ランパゾーナ、ダンバシェーリ、メリガッロ、メンネッラ、ンチンナリコ、スペリーノ、トゥンドゥリッル、バスタルダ・ロッサなど全く耳慣れない品種と、ガルナッチャ、マルヴァジア・ネーラ・ディ・シッラ、グレコ・ネーロ・ディ・シーバリ、アリカンテ・カラブレーゼ、ズィビッベッドゥ、ランブルスコ・カラブロ、ネロ・ダーヴォラ・カラブレーゼなどすでに知られている品種の亜種と考えられるものまで様々。
  「ドナートは1998年に契約を交わすまでに何度かリブランディを視察してテイスティングを繰り返し、固有品種のポテンシャルにほとんど興奮状態でした。中には、ワインとしての出来の芳しいものがあり、チロなどに極少量ブレンドしていますが、単一品種として商品化するにはまだ時間がかかります」。しかし、これだけのカラブリア固有品種が自らの再生の日を夢見ていると思うと、何だがワクワクしてくる。これらのブドウがリブランディのエティケッタに名を連ねる日が本当に待ち遠しい。
  ニコーデモさんの表情には、厳しさと明るく若々しい気性が同居している。祖父の代からつづく葡萄栽培農家を、ローマ大学で数学を勉強した後に継いだ。今やカラブリア品種のワイン造りが楽しくて仕方がない。そしてプロモーションなどで世界中を旅する時、新しい出会いにまた刺激を受けると言う。「単に本能に従って生きていれば“正しい刺激”を見出すことが出来るのです」。畑からの帰り道、イオニア海を望む国道をぶっ飛ばしながら、今の仕事の充実感を静かに語った。

マテーラワイン探求
  バジリカータ州マテーラ。世界遺産に登録されるサッシ(洞窟住居群)は、貧困と重苦しさを象徴するような風景だ。イタリアの数ある歴史的遺産の多くは、富や華やかさ、洗練などを表現しているから、それらとはまったく逆の光景である。先史以来、人々が洞窟を掘り続け、凝灰岩を積み上げて作った稀有の街であり、そこには太陽輝く南の国という明るいイメージとは正反対の、陰鬱が腰を下ろしているかに見える。ローマに住むトスカーナ出身の友人にマテーラ滞在の話をすると、「なんでそんな貧しい見放された所に行くのか」と眉間に皺を寄せた。反発を感じつつも15年前の自分も「怖いもの見たさ」でマテーラを訪れたことを思い出す。同じことをシチリアの友人に告げると「いい所だろ。自然の規模も北とは全然違うからね。何よりも食物が美味しい。素材の味が北とは別次元だよ」と目を輝かせた。確かに食物は美味しい。ヨーロッパ的なリストランテ文化を全く拒絶するような素材の力強さだ。ピーマン、じゃがいも、マメ、オリーブ、トマト。新鮮さと味の濃さを堪能するだけでも南イタリアの旅はエキサイティングだ。
  マテーラのレストランのワインリストは、90%がバジリカータ北部ポテンツァ県のアリアニコ・デル・ヴルトゥレ、残りの10%がプーリアワインだ。地元のワインはないのだろうか。サッシ観光で足を棒にして巡る洞窟教会には必ずパルメントと呼ばれる石造りの発酵槽がある。さらに観光の途中で2回も自家消費用ワイン造りの現場に出くわした。マテーラではきっとワイン造りが盛んだったのだと察する。しかし一歩街を出るとそこは広大な麦畑。街の北はずれにはイタリア最大級のパスタ工場。サッシに残るパルメントはもはや埋もれたワイン文化の化石でしかないのだろうか。サッシに葬り去られたかつてのブドウ作りと今日のそれについて、郷土史研究家ジョヴァンニ・リッカルディさんに聞いた。
―サッシにはパルメントがありますね。
  サッシには、97の洞窟醸造所があり、そこには最低一つのパルメントがあります。昔はサッシ内のすべての家が自家消費やプーリア州境の村々に売るためのブドウを耕作していました。サッシ内最古のワイナリーは1204年まで遡ることが出来ますが、ほとんどのものは16〜17世紀のものです。それらは1950年代の“サッシの放棄”の時代(ファシズム期にこの地に流刑された政治犯カルロ・レーヴィが戦後発表した著作「キリストはエボリにとどまりぬ」で、マテーラの貧困が伝えられ、時の政府は、サッシは戦後南伊文化の負の遺産であるとして1950〜60年代にかけて無人化された。しかし極貧農は依然としてサッシに取り残され、その暗鬱なイメージが更に深まった)まで使用されていました。今日も修復したワイナリーで少量ですがワインが生産、熟成されています。
―マテーラにブドウ栽培を伝えたのはギリシャ人ですか。
  そうではありません。すでに紀元前2000年の中期青銅器時代に、ここでブドウが栽培されていたことが証明されています。ただ当時の容器は羊やヤギの皮なので現存していません。最も重要な場所はティンマーリ、イジーノ、ピッチャーノなどマテーラ近郊の丘陵地で、プロトヴィッラノヴィアーナ(初期鉄器文明時代)と考古学者から呼ばれる文化を証明するものです。またサッシの一番古い居住区も中期青銅器時代まで遡ることができます。ギリシャ人が来る前にこの地にはエノートリ(偉大なワイン生産者)が住んでいました。“エノス”はワインを表し、エノートリの領地は“エノートリア”と呼ばれていました。彼らの首都はパンドシアで、マテーラからそう遠くないイオニア海沿岸のポリコーロ村の近くにあったのですが、すでに消滅してしまった都市でした。ギリシャ人が新しい栽培法を携えてこの地に来たのは、紀元前7世紀のことです。近年、テキサス・オースティン大学のジョゼフ・コールマン・カーター氏が論文を発表しています。ポリコーロのピッツィカとパンタネッロ間の古植物調査によって、ヴィティス・ヴィニフェラはすべての丘陵地とメタポントやポリコーロの森の中でも耕作され、剪定されていたことが明らかになりました。
―エノートリのワイン造りの痕跡はあるのですか。
  彼らがどんなワインを造っていたかはわかりません。ただ古代ギリシャ人がやってきて、ワインに水と少量の粉チーズがブレンドされるようになりました。マテーラやポリコーロ、メタポントの考古学博物館には、輸送など商用に使われた壷が展示されています。ルカーニア人がバジリカータ北部からこの地にやってきたのは前5世紀です。その頃はすでにバジリカータ全体にギリシャ人の醸造技術が導入されていました。
―マテーラワインに関する最も古い記述はいつごろのものですか。
  パトリーノというワインはモンテスカリオーゾ(マテーラ県)近くのパトリーノ村に由来し、1600年代の記述に残っています。マテーラの洞窟で造るワインはプロチョーネ(アライグマ座の意)と呼ばれていました。アライグマ座はオオイヌ座に先駆けて姿を現す星座です。これは私の推測ですがプリミティーヴォが他のブドウより成熟が早く収穫時期も早かったためにこの名がついたのではないかと思っています。
―1950年代までのマテーラ(サッシ)におけるワイン造りについて教えてください。
  マテーラ市の歴史統計にピエロ・アントニオ・リドラという弁護士の書いた資料があります。それによると「マテーラの葡萄畑は広大である。マテーラワインは軽くて優雅。醸造法はパエサーナ(この村独自のという意味)方式とシエネーゼ方式の2種類ある。パエサーナ方式は、白マストと黒葡萄の房(白黒比率5:1)を樽で発酵させたもの。軽くストラクチャーも弱くあまり商業化されず収穫年内にマテーラの街だけで消費されるワイン。シエネーゼ方式は、3分の1の黒葡萄のマストとヴィナッチャ(搾り粕)を白マストとともにパルメントで発酵させ、清澄させてワインを樽詰めする方法。ワイナリーはすべて洞窟に掘られたもので、小さな階段で地下2階の3層に別れています。夏は0℃に近い温度を保ち、最も深い層で熟成させるとワインを保存できる」とあります。
  パルメントは、表面を石の粉、水、割れた陶器の破片などでつくったア・コッチョ・ペストでコーティングされていました。ブドウがパルメントに運ばれると農民が裸足で踏み、数日間マストを発酵させます。この間、炭酸ガスを抜きながら、アルコール分が高まったらオークの大樽に移していました。樽はトルコオーク、桜、栗を使うこともあり、小樽はモミの木を使っていました。収穫は9月に行われ、樽に移すのは11月下旬から12月初旬頃。搾り粕でヴィネッロというワインを造っていました。1haの畑から25〜30h・のワインが造られたといいます。
―当時はどんな品種が栽培されていたのでしょう。
  マテーラの考古学博物館には、上院議員ドメニコ・リドラがサッシの中で、プリミティーヴォで造ったイタリア最古のラベルが残っています。このワインはプリミティーヴォ、アレアティコ、モスカテッロが混醸されています。チェリー色、フレッシュ感のある芳しさがあって、味わいはとても美味だったといいます。酸もほどほどあって、アルコール度15.6%のデザートワインだったようです。1887年に行われた第1回バジリカータワイン品評会でも131の村から出品されたワインの中で賞を取っています。プーリアのプリミティーヴォ・ディ・マンドゥーリアよりも古く、プリミティーヴォとしては最も古い瓶詰商業用ワインで、1891年産のラベルがマテーラ考古学博物館に残っています。残念ながらこのワインの醸造法等については何も分かっていません。
―たくさんのパルメントがサッシにありますが、マテーラ周辺には麦畑ばかりです。
  ブドウ畑は1950年代に始まった過疎化で、完全になくなりました。そしてそこには新市街の住宅が建ちました。1886年の統計によると、マテーラはバジリカータ最大のブドウ生産地で、サッシの中の97ワイナリーだけで5万h・のワインを生産していました。これは当時のアリアニコ・デル・ヴルトゥレ地区のヴェノーザやバリーレの生産量の2倍に当たりますが、それでも麦の生産量に比べると少なかったのです。ファシズム期に麦の生産が飛躍的に伸びますが、それでブドウ生産が減少したわけではありませんでした。
  第二次大戦後、アメリカ人がイタリアをはじめヨーロッパ諸国に麦やその他の作物の増産計画を導入し、生産コストを3分の1に引き下げました。これでイタリアは史上初の農業危機に瀕しました。多くの農民が農地を捨て、アメリカ資本の作ったイタリア北部の工場で働くために移住しました。北部だけでなくアメリカやアルゼンチン、チリにも移民しました。
  そして南米への移民は、現在の経済格差のため二度と故郷に戻れなくなりました。つまりアメリカの政策はトリノ、ミラノ、ジェノヴァを中心とした北部の復興には大いに貢献しましたが、同時に南部経済を破壊したと言えます。南部には投資がないまま、どんどん貧困化しました。現在でも北部と南部の経済格差は大きく、マテーラやレッチェなどの都市部だけが少し経済力をつけているにすぎません。現在、メタポントの大規模開発やヨーロッパ最大級のダム湖建設など、この地域の農業復興が図られています。

マテーラの農業事情
  マテーラの農業事情をバジリカータ州農業課ジュゼッペ・マルヴァージさんは次のように語る。
  マテーラを代表する農作物は小麦です。マテーラ産小麦で作るパスタとパンは非常に有名ですし、近年は質の高い新しい品種が注目されています。オリーヴやオリーブオイルも良質のものが生まれています。ただ、マテーラを内外にアピールできる作目はワインだとバジリカータ州は考えおり、プリミティーヴォやグレーコなどプレステージの高い品種の垣根栽培には補助金を出しています。この二品種は過去に成功を収めていたからです。この数十年はフルーツ(柑橘類、桃、アンズ、スモモなど)やオリーヴ栽培が盛んでしたが、今後はワインに期待しています。すべては市場動向をにらんだ経済的な選択です。
―新しいDOCができるのでしょうか。
  はい。現在でもマテーラワインはバジリカータIGTになっており、ヴェロネッリ、ガンベロロッソ、エスプレッソに取上げられています。新DOCはプリミティーヴォとグレーコが主体、垣根仕立てだけが認められ、灌漑なしで収量は100キンタル/haになるでしょう。潜在性はアリアニコ・デル・ヴルトゥレに引けを取らないと思います。
  新たに畑を開墾し新しいワイナリーを始める農家が増えています。特に若い世代からは挑戦する気概を感じます。

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  現在のマテーラワインには、まだ見るべきものがないが、昔日のワイン造りの繁栄は、廃墟となったパルメントから見て取れる。これは今後の可能性を暗示するものなのかもしれない。他の地域ではすでに“ワイン・ルネッサンス”は起きたのだから。
  長らく見放されていたサッシに、新しく生活の場、商売の場を求めて戻ってくる人々が現れている。彼らの模索する新しい居住空間は、蟻の巣のように縦横無尽に広がるサッシの内部構造をそのまま利用しながら、インテリアを現代的に蘇らせるというもの。一般住居、レストラン、ホテル、ギャラリーなど様々だが、構造がユニークなので世界に一つしかないスペースになる。住居の前庭は下隣の屋上であったり、隣と共同の庭であったり、1階から3階に続く階段は共有スペースでもあったり、近所の集会所の役割があったり。前近代的な共同体のあり方にあえて回帰しようとする動きは、サッシのもつ迫力と幻想的な美しさに抗えないからだろう。
  イメージや先入観とはやっかいなもので、それはほとんど偏見である場合が多い。マテーラ滞在中に見えたのものは、貧困でも暗さでもなく、大いなる自然と深い歴史に抱かれた街と人々の余裕であり、それは屈託のない思いと同居していると感じた。