余話。その4

日本のワインづくり

− 変遷と未来像(1-8) −

 そこで「日本ではヨーロッパ系ブドウ品種は育たない」という風説の元凶探しをしなければなりません。

 目星はおおよそついていました。この言説を強く主張する人たち、いわば確信犯の系譜をたどっていけば、必ずわかるはずだと思ったのです。そこでひらめきました。日本の果樹農業、園芸学の開祖へさかのぼって、そこから文献を渉猟しつつ時代をおりてくれば、もっと早く、この理由の定かでない学説を開陳した人物に出合えるのではないかと。

 それで、その通りにやったんです。ですが、その講をする前に、日本の果樹農業についてちょっと触れておきます。明治以前、日本人は柿、いちじく、枇杷、梅などを庭先に植えて果実を食べたり加工したりしてはいましたが、それを生業とするような発想は、まずありませんでした。甲斐の名産甲州葡萄にしても、現在のようにブドウ専業農家があったわけではありません。栽培面積もごく僅かなものだったんですね。要するに、果樹農業というものは存在しなかった。換金作物でありえたのは、例外といったほうがいいんです。

 ところが、明治維新で一転します。果樹・牧畜という新しい農業の推進が国家の一大政策となる。これを「泰西農業」と呼んで、たいへんな期待がかかりました。三田育種場、播州葡萄園、神戸阿利襪(オリーブ)園、下総種畜場、嶺岡牧場、三田農具製作所といった国営の施設が続々つくられたのを見ても、その意気込みが強く感じられます。

 それで人材の確保はどうなのかといいますと、選ばれた人たちは猛烈に勉強しますが、後手にまわった感は否めません。ワイン醸造のために導入した欧米のブドウの栽培に着手しようとした明治10年前後、その栽培法を実地に学んだ人はほとんど皆無だったんです。修得した知識がどのようなものであったにせよ、現場を体験したという履歴のある人を数えてみますと、まず小沢善平、次が桂二郎、この人は『葡萄栽培新書』という本を明治15年に出版しています。そして、勝沼の大日本山梨葡萄酒会社から派遣された高野正誠と上屋龍憲。これくらいでしょう。

 ウィーンで農学者ホーイブレンに師事した津田仙のブドウについての体験はあやしいものです。山梨県が県営葡萄酒醸造場に招聘したアメリカ帰りの大藤松五郎も、どれだけ知っていたのかわかりません。

 こんな状況で官営播州葡萄園は発足します。園長になるのは津田仙の学農社農学校で学んだ福羽逸人です。播州葡萄園は明治13年に開設され、ようやく園地の整備ができて、これから醸造が本格化するという明治18年、フィロキセラに襲われます。

 この大惨事の最中、明治19年に彼は「官命を奉じて留学」するのです。日本の園芸学はここが起点です。



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