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余話。その4
− 変遷と未来像(1-5) −
| ここでつけ加えておかなければいけないのは、ブドウ栽培のその先にあるワインを、殖産興業政策がなぜ目標としたのかということです。維新政府が考える近代国家建設のシナリオが工業化社会へ至る最初のステップを農産物加工工業の育成をおいてほかにないとみていた時期があったからです。日本人は清酒をやめてワインを飲めばよいという暴論がその裏側にあったんでしょう。当時は飢餓がたびたびありましたし、もし余剰の米があれば、それで外貨が稼げたのです。 というわけで、明治10年に「三田育種場」が開設され、ここへ欧米の果樹・穀菜が集められます。その主体は醸造用ブドウです。どんな品種があったかは、明治17年に出版された『舶来果樹要覧』によって知ることができます。それによると中国産2種を含み、丁度100種です。これらの苗木が日本全国へ配布されて、醸造用ブドウの栽培が国策として展開されたんですから、なんともすごい話です。 明治13年には国営ワイナリー建設が始まります。自園30ha、ブランデー蒸留場も併設されました。これが官営「播州葡萄園」です。 民間にも「盛田葡萄園」など大規模な事業が着手されて、ワイン国産化の機運は澎湃(ぼうはい)として全国に高まっていくかに見えました。そして、それらは幻のように消えたのです。 フィロキセラでした。原種圃場の三田育種場が、アメリカから導入した苗木によって汚染されたため、全国へ一気に広まってしまいました。期待を担っていた播州葡萄園も壊滅して、ついに再興することはありませんでした。この時期、殖産興業政策の流れも、西欧の機械制大工業を直接導入して近代化を急ぐ方向へ転換していたのです。 川上善兵衛が収集した国内の欧米品種は、フィロキセラとそれに続いて蔓延したうどん粉病から、からくも生き残っていたブドウだったんですね。これは、欧州ブドウの栽培が容易でないのを承知の上で、しかもなお、それに取り組む強い動機があったからでしょう。 彼はワインづくりに夢をかけたのではないと思います。ワインは夢の結果であり、彼が夢みたのは、雪深い越後の零細農民の暮らしをゆたかにするため、水田耕作に加えて新たな農業収入の道を開くことでした。これは若くして在方の大地主の家長となった川上善兵衛の自意識に根ざした理想であり、彼は生涯をかけてその道を歩み続けたのです。目指したのは水田と果樹の複合経営。そして着目した果樹がブドウでありました。ですから川上善兵衛が導入したブドウ品種には生食用も数多くあります。交配育種も醸造用だけをねらっていたわけではありません。 しかし、岩の原葡萄園の沿革をたどりますと、農園の開設とほとんど並行して醸造場や地下蔵がつくられていき、彼自身はワイン醸造のためのブドウ栽培に力を注ごうと最初から決心しているのがわかります。 そこでもう一度問い直さなければならないのが、川上善兵衛において、ブドウ栽培とワイン醸造は一体のものでありながら、どこに力点がおかれていたのか、というところなんです。 |