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余話。その3
− テロワールは産地の名声を支えられるか(2-6) −
| 醸造技術の進歩は、粗放な環境で発酵を行うことを否定しました。その結果、gout de terroirは希薄になっていったのです。産地とは関係なく、品種ごとにそれぞれの果実の持ち味を発揮しはじめたといった方が正確かもしれません。 その成果として、新興産地は伝統産地の銘醸ワインに匹敵するヴァラエタル・ワインを続々と世に送り出すようになりました。いわば、新世界の無名の「テロワール」が、伝統産地の偉大な「テロワール」と肩を並べたわけです。 醸造において技術革新が進み、そこにブドウ品種の選択的拡散が重なると、ワインの産地がどこであれ普遍化していきます。これは「テロワール」に由来するワインの個性と、醸造技術に支えられた個性とが、せめぎ合っている,状態と見えます。 そして、産地の個性gout de terroirはみえにくくなり、代わって、つくり手の意志が酒質に反映するようになったと思われます。しかし、つくり手の力量がワインづくりのすべての面でプライオリティを穫得するというようなことはあり得るのだろうか。いや、表現をかえて、そのようにしてワインをつくってよいのだろうか、という疑念は強く残ります。 terroirという概念に「人」の要素を入れるか否かという意見の対立も、ワインづくりが目覚ましい進歩を遂げつつある現実を前にして、「ワインとはいかなるものか」というつくり手にとってのフィロソフイーが問われているからだと私には思えるのです。 ワインづくりの現実に即していえば、「テロワール」は決して自然そのものではありません。にもかかわらず、「人為」を否定するつくり手がいるのは、ワインのアイデンティティは「人為」を超越したところにあるという信念から発したものと思います。これはいささか了見のせまい見方ではないでしょうか。 なぜなら、「人為」は自然の持ち味を希薄にする方向にばかり作用するのではなく、自然の中に秘められたポテンシャルを引き出す力を持っているからです。 |