| では、アメリカ大陸がワインの新興産地となるための前提条件、ミッション、パイス、クリオージャにとって代わる、diffusionの第二波はいつ起きたのでしょう。 その前に、話が前後しますが、東まわりでブドウが伝播したもうひとつの新興産地、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドに触れておきます。実はこのグループに日本もいれるべきではないかと、私は考えています。 インド航路は更に東へのびて、東印度会社の貿易ルートとなります。この遠洋航海には飲料としてマデイラやポルトが積まれたことは有名な話です。マデイラ島は航海の中継基地でありました。それが南アフリカのケープへ前進します。バルトロメウ・ディアスが書望峰に到達してから、およそ170年後のことです。東印度会社のための食料基地がコンスタンシアに建設されました。1655年、ここへドイツ、フランス、スペインなどからブドウの穂木が持ち込まれ、挿し木に成功します。そして、1659年、最初のワイン15Lがつくられました。ミュスカデルであったそうです。 以後、コンスタンシア産のワインは次第に有名となっていきます。1678年にはステレンボッシュへの入植が始まり、種々のブドウ品種が南アフリカ独特の呼称で栽培されるようになりました。スティーンはシュナン・ブラン。グリーングレープはセミヨン。ルネプートはマスカット・オブ・アレキサンドリアの古いタイプ。ポンタックはたぶんボルドーのカベルネ系統の黒ブドウです。 先はど言い落としましたが、インド航路を開拓したポルトガルはゴア、マカオなどに商館を置き中継貿易に終始します。代って、インドを植民地化し、さらにオランダと東南アジアでの勢力をきそったのはイギリスです。 産業革命が始まる1760年頃からイギリスの植民地争奪はアフリカ、インド、東南アジア、そしてオーストラリアへ向かいます。アメリカ独立で失うものを東方世界でつぐなおうとするかに見えます。産業革命を支える広大な市場の確保と、原材料供給地を支配するためでした。1788年、イギリスはシドニーを占領し、オーストラリアを囚人植民地とします。そして、この年、いち早くブドウが移植されました。 さて、こうして新興産地の第一次diffusionは18世紀までにはぼ終わりました。しかし今日の輝かしい産地が形成されるには、第二次、第三次のdiffusionが必要でした。 このあとに続く、ヨーロッパからのブドウ導入の目ぼしい事蹟を拾ってみましょう。
このように19世紀の中頃、地球規模でヨーロッパのブドウは新産地へ拡散しました。当時ボルドー、ブルゴーニュの名声は確立していましたし、ドイツのリースリングも評価が定まっていましたので、品種の移動はそれらが主体となりました。 にもかかわらず、新世界のワインは1970年代以降まで浮上しません。 その第一の理由は、ヨーロッパ系品種が遭遇した異風土の壁です。それはヨーロッパそれ自体のブドウ畑をもまき込んでしまいました。うどんこ病とフィロキセラです。 この時、唯一被害をまのがれたのはチリでした。しかし、皮肉なことに、チリには土着化したワインのマーケットがすでに成立していました。カベルネやメルロー、ソーヴィニヨン・ブランやセミヨンはパイスの間に埋もれたのです。 加えて、アメリカでは禁酒法による中断がありました。二度にわたる世界大戦もワイン市場の育成をはばみました。こうした不安定な社会情勢は技術の停滞につながります。 要するに、新世界のワインは地球市場向の産業として特異な成熟を遂げつつあったのです。唯ー、伝統産地の刺激を受けることができた産地、それがカリフォルニアでありました。1970年代、新興産地の形成がカリフォルニアから始まった理由が、ここにあります。 新世界のワイン産地が今日の大発展に至る段階を、もう一度整理しておきます。地域による多少の差異はあるものの、それははぼ同じ経過をたどりました。すなわち、 T ブドウ導入期 第一次diffusionです。 U 土着期 クリオージャやスティーンに収斂しました。 V 再興期 第二次、第三次とdiffusionが重ねられます。ここに技術革新が加わって、新興産地の輪郭が浮かび上がってきます。 このように、新興産地は突如生まれたのではありません。少なくとも200年の助走があったのです。 考えてみれば、この200年は、フランスの伝統産地が名声を確立するのに要した、その年月に相当しています。(この項続く) ■ |