余話。その2
                                                  
ワインづくりが技術を獲得するまで(4)
-パスツ−ル以降−
 
 
 出かける前後の事情にちょっと触れておきます。 その頃、日本では急にワインが売れ出して、ブームとか書きたてられ、業界が活気づいていたんです。ところが、それまでワインはいくら項張っても売れない。明治から100年、それで来れたわけですから、ワイン用のブドウ畑はごく僅かしかありません。たちまち不足しますし、すぐに増産できるわけでもない。となると、まずはバルクワインに頼るしか方法はなかったのです。
 そこでどこから輸入するか。品質は良くて価格は安い。そんな都合の良いものが簡単に手に入るわけはありません。価格では、当時、関税がまだかなり高かったので、特恵国のものに限られます。EUに加盟する前のスペイン、東欧諸国なかでもブルガリアと旧ユーゴスラヴィア、この三国が供給量も多く、品質も比扱的良いものがオッファーされました。けれども買付数量が増加すれば取引は次第にタイトになります。ワイン消費は伸び続けると予測して、次の産地を確保しなければなりません。相手国として当然浮上するのはアルゼンチンです。なにしろ、世界第5位のワイン生産大国なのですから。
 それがなぜ残っていたか。忘れていたのではありません。大手のワイン会社はみな調査に行っているのです。その結論が「品質が悪くて使えない」ということでした。それを技術力の低さとみたんですね。私が技術指導という名目で行ってこいと言われたのは、こんな理由からだったのです。

 とにかく「あんまりひどいワインを平気でつくる技術」の悪評ばかり聞かされていましたから、行ってみて、まずスケールの大きさに庄倒されてしまいました。すべてが広々としていて、のんびり仕事しているように見えるので、最初はその巨大ささえ実感として捉えることはできませんでした。夕方、ブドウの入荷が終わったとき、今日は何t仕込んだのか聞いたのです。すると返ってきた答が、「予定ほど集まらなかったけれど、2000tちょっと」というではありませんか。
 私が勝沼で史上最高に仕込んだといって胸を張ったのが2年前の1974年、8月の終わりから11月の初旬まで、それこそ眠る間も惜しんでやっと2000t達成した、それを1日で苦もなく仕込んでしまう。愕然としました。
 彼等のワイナリーの能力は1日3000t、1シーズンで15万t、1仕込が赤で600t、白で1000kLです。その頃の勝沼は1仕込の大きさが10tから20tでした。困ったのは、試験仕込みをしようにも小さなタンクがまったくないことでした。それで、いきなり600tのプドウで試験するわけです。こちらは心配でたまらない。」工場長は「気にするな。あとは面倒みてやるよ」という。どんなワインができても平気なんです。
 というのは、彼等の製品はメンドーサで醸造して、1000km東のブエノスアイレスで壜詰していた。毎日、石油のタンカーと同じ貨車を10両か15両繋げた特別編成の車両列車を走らせているんです。そのワインは彼等のいうコモンワイン、日常大量に消費されるごく普通のワインで、いつでも均質のものが要求されます。そのためのブレンドタンクが5250kL、これが地下3階まであるセラーをぶち抜いてドカンとあるのです。
 日本のワイン消費量は、ブームが起こる前まではずっと5000kL前後でしたから、そのタンクをみて、これが日本人が1年に飲む量かと感慨に耐えませんでした。600tの試験仕込がどんな出来であろうと気にかけずにいられるわけです。そして、そのワインの品質を改善しろというのが、バルクワインを買付けたい日本のワインメーカーの言い分です。
 私達がいうところの良いワイン、彼等はそれをフィーノというのですが、それはつくろうとしない。技術が劣っていてつくれないのではなく、フィーノのマーケットが存在しないのです。それでコモンワインの生産施設の装置化だけがものすごく進歩した。飲み手はコモンワインに不満を感じていない。品質の向上は、それを求める飲み手がいて、はじめて始まるのです。アルゼンチンの醸造技術を批判するのは見当違いで、問題はフィーノをつくる動機がなかったのと、システム化されたコモンワインのワイナリーでは、コモンワインしかつくれない仕組みになっていることにあったのです。


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