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余話。その2
品種を巡るパラドックス
-カベルネとシャルドネは究極の品種なのか(7)−
| いままで話してきたことを、ちょっと整理しておきます。 前掲の表に見られる「品種の拡散」は、銘醸ワインの普遍化という願望がこめられています。銘醸ワインは特定の畑から生まれますが、ブドウ畑は動かせません。しかし、伝統産地で畑とそこに植えられたブドウの「品種」は一体のものでしたが、その「品種」は動かせるものだったのです。「品種」はビールが文明化したときの、冷凍機のような「装置」、低温発酵酵母を純粋培養する「技術」と同列に置かれるべき、文明化の手段なのです。 ついでに申しますと、文明化は量的拡大を伴うものです。マス・マーケットの成立が引き金となっているからです。「品種の拡散」は「畑の拡大」と解釈することができます。いまでこそ、銘醸畑はAOCなどの法律が整備されて、面積を増加させることはできませんが、それに代わる「品種」の拡散が行われる以前、著名な産地で「風土ばなれ」ともいうべき過大な畑の拡大が安易に行われたことも指摘しておきます。 余談になりますが、シャブリの場合について触れておきます。 シャブリは今日ではブルゴーニュの飛び地のようになっていますが、12世紀頃、ブルゴーニュワインの中心は、シャブリを含むオーセール地方でした。その品質が非常に高く評価されていたため、当時は特権階級のワインであったそうです。それはシトー会派のボンティニー修道院の力も大きく寄与したのではないかと想像します。その修道院は現在のシャブリ・グラン・クリュとなる土地を、用地としていち早く取得しています。 16世紀にはブドウ畑は900haまで拡大し、オーセール産の安ワインとは別格のものとして、パリから更にルーアンを経て海外にまで販路を広げていました。それがフランス大革命まで安定して続いていたのですが、革命後、畑は急速に拡大し、80年間で4万haに達しました。シャブリはフランス産白ワインの主座を占めたのです。しかも、生産量の4分の3はガメ種による赤ワインでした。今日、シャブリにイランシーのAOCがあるのは、その名残りです。 シャブリは質から量へ転換してパリ市民のVin de Tableとなったのです。そして、ウドン粉病とフィロキセラが相次いでこの産地を襲いました。1920年には畑はたった400haにまでなってしまい、1950年代に入っても、まだ500haしかない状態でした。 シャブリの名声が復活する1970年代は1000ha、それが1990年には3400ha。増加するのは格付の低い畑です。シャブリの栄光を支える特級畑はたった100haしかありません。 「コト」による文明化が、「産地」ではなく「品種」によって加速した事情は、こうしたシャブリの盛衰から察することができるでしよう。 ■ |